山本慎也僕の名前は、山本慎也。事の始まりは、2年前からはじまる。
過去の残像(回想)
大学3年の秋だった。
図書館の閉館ぎりぎりまで残って、慎也はスマホを握ったまま、ずっと画面を見つめていた。
「話がある」
送信ボタンを押すまでに、何十分かかっただろう。
結城とは、コンピューター好きのオフ会で出会った。プログラミングが趣味という共通点で意気投合して、気づいたら交際していた。互いに初めての恋人だった。
最初の半年は、よかった。
でも少しずつ、息が詰まるようになっていった。
女の子と話しただけで「どういう関係なの」と問い詰められた。LINEの既読が数分ついただけで「今どこにいるの、誰といるの」と立て続けにメッセージが届いた。「信頼してるなら見せられるよね」とスマホのロック解除を求められたこともあった。
好きだから心配するんだと、最初は思っていた。でも半年、1年と経つうちに、それが「好き」とは違うものだとわかってきた。
1年半が経った頃、慎也はようやく決意した。
待ち合わせのカフェで向かい合った結城は、メッセージを受け取ったときから、もう全部わかっていたような顔をしていた。
「別れたい、ってこと?」
「……うん。ごめん」
しばらく沈黙が続いた。窓の外では銀杏並木が風に揺れていた。
「あなたは」と結城は静かに言った。「必ず後悔する」
感情のない、でも確信に満ちた声だった。慎也はその言葉をうまく受け止められないまま、店を出た。
それから半年が経った。
日常「このワールド、慎也が全部作ったの?」
里見の声が、ヘッドセット越しに聞こえた。
メタCの画面の中、二人のアバターが並んで立っていた。慎也が3ヶ月かけて作った和風の庭園ワールドだ。枯山水の石庭、縁側、夕焼け色に染まる空。BGMも自分で選んだ。
「そう。細かいところ、まだ直したいとこあるんだけど」
「いや、すごいよ。本当に。石の並び方まで凝ってる」
慎也のアバターが照れたように頭をかいた。
「里見に見てほしかったんだよな、ここ」
「……なんか、急に恥ずかしいこと言うじゃん」
「事実だから」
里見は笑った。慎也も笑った。
恋人と付き合って3ヶ月。大手セキュリティ会社に勤める里見とは、メタCのセキュリティ啓発イベントで知り合った。慎也がクリエイターとして参加したイベントで、里見が登壇者として来ていた。話しかけたのは慎也からで、今思えば我ながら思い切ったと思う。
本業はスタートアップのWebエンジニアで、メタCでのワールド制作はあくまで副業だ。でも里見に見せたくて、この3ヶ月で一番力を入れて作ったのがこのワールドだった。
「……ねえ、最近、変な夢見ない?」
里見が少し間を置いてから聞いた。
「変な夢?」
「いや、なんか顔が暗いときあるから」
慎也はしばらく黙った。
「……前付き合ってたやつのこと、ちょっと思い出しててさ。別に未練とかじゃないけど、なんか、気になってる」
「なんで気になるの?」
「わからない。ただ、なんとなく」
里見は何も言わなかった。でも否定もしなかった。
それがまた、慎也には心地よかった。
現役のエンジニアが罠にかかる
その夜、慎也のスマホにメールが届いた。
差出人は「MetaC Creator Support」。
件名:【重要】クリエイターアカウントに関するセキュリティ通知
平素よりメタCをご利用いただきありがとうございます。 お客様のアカウントにて、不審なアクセスが検知されました。 下記リンクより、ログインの上、設定を更新してください。 対応期限:24時間以内
アイコンも、文面も、本物そっくりだった。
「不審なアクセス」という言葉が、慎也の頭の中で引っかかった。さっきまでVRで遊んでいたから、余計に心配になった。
リンクをタップした。
ログイン画面が表示された。見た目は本物と同じだった。IDを入力した。パスワードを入力した。「設定を更新しました」という画面が出た。
何の違和感もなかった。
慎也はスマホを置いて、ベッドに横になった。
翌朝、目が覚めてメタCを開こうとした。
「このアカウントは存在しません」
エラーメッセージが表示されていた。
ログインを試みた。何度やっても弾かれた。自分のワールドのページを開いた。ワールドはあった。でも説明文が書き換えられていた。見知らぬ画像が貼られていた。自分の名前で、自分が作ったものではないコンテンツが公開されていた。
「何が、起きてるんだ……」
手が震えた。
里見に電話する
「里見、ちょっと聞いていい」
電話越しに状況を話すと、里見はすぐに「画面共有して」と言った。
スマホをパソコンにつないで、画面を見せた。
里見は黙って確認していた。しばらくして、静かに言った。
「フィッシングだね」
「……フィッシング?」
「本物に見せかけた偽のサイトに、IDとパスワードを入力させる手口。釣り(fishing)から来てる言葉。昨日のメール、本物のメタCからじゃなかったと思う」
慎也は昨夜のメールを見返した。送信元のドメインが「login.metac-vr-portal.net」。公式は「metac-vr.jp」だ。確かに違う。でも昨夜は全然気づかなかった。
「まさか、現役エンジニアの俺が、騙されるなんて・・・」
「パスワードだけじゃ守れないんだよ」と里見は言った。「IDとパスワードが合ってるかどうかだけで判断するから、盗まれたら終わり。本当は、もう一段階確認する仕組みが必要なんだけど……それは追々話すね」
「アカウント、戻る?」
「メタCのサポートに連絡して、身分証明できれば戻ると思う。一緒にやろう」
里見の声は落ち着いていた。慌ててなかった。それが慎也には、今一番助かった。
慎也の決意
アカウントの回復手続きに、2日かかった。
元に戻ったワールドを開いて、慎也は縁側のアバターに座った。里見も隣にいた。
「俺、ちゃんと学びたい」
しばらく経ってから、慎也は言った。
「なに?」
「セキュリティのこと。自分のものが勝手に書き換えられて、誰かに乗っ取られて……何もできなかった。何が起きてるかもわかんなくて、里見に電話するしかなかった。それが悔しくて」
里見は答えなかった。
「自分で守れるようになりたい。作ったものを、ちゃんと守れる人間になりたい」
石庭の向こう、夕焼けのテクスチャがゆっくり動いていた。
「……じゃあ」と恋人は言った。「教えてあげる」
「いいの?」
「もともとセキュリティ啓発が仕事の一部だから。それに」
少し間があった。
「慎也が真剣なら、私もちゃんとやる」
慎也はアバターを里見の方に向けた。
「よろしくお願いします」
「敬語やめて」
「……よろしく」
「うん」
石庭に風が吹いた。二人のアバターの衣装がわずかに揺れた。
闇の中で
同じ夜、別の場所で。
スマホの画面だけが光っていた。
アカウント回復完了の通知が流れてきた。それを見て、結城は小さく笑った。
「まだ始まったばかり」
※筆者は現在セキュリティを学習中です。内容に誤りがある場合はコメントでお知らせいただけると助かります。






コメント